設定編、ということで更にディティールに突っ込んで観ていく。
実際の動物のサイズ、に基づいてキャラクターの背丈を決め、という部分については前回触れた。このように、擬人化・デフォルメはすれどかなり実際の動物の生態に忠実に描写している。
もともと、ディズニーの行う動物をキャラクタライズするときの凄みは、この「動物感」だ。とてもかわいらしく魅力的なキャラクターを生み出すことについては説明不要のディズニーだが、こと動物をキャラクター化するとき必要以上に手を加えず、動作や表情に至るまでかなり動物的なアクションを残し擬人化を抑えて、という絶妙なバランスをを実現している(古くは『白雪姫』『バンビ』の森の動物たち、擬人化したものとして『ロビンフッド』や『ジャングルブック』を観よ)。動物ならではのワイルドでダイナミックな挙動と、キャラクターとして感情を伝えきるデフォルメ。このバランス感覚が、まさに『ズートピア』のキャラクターを魅力的にしている。
デザインで言えば、特筆すべきは主人公ジュディのセクシーな曲線美。アメリカン・アニメの伝統とも言っていい女性的セクシーさと、そもそもウサギがもつ肉感的なフォルムの完璧な融合。ぴったりとした衣装も似合う。しかし決してエロく・イヤらしくならず、健康的な部分が前面に出ている。
動物的挙動で衝撃的だったのは、事件解決後のカワウソ夫婦の抱擁シーンである。絡みつくような動きは完全にカワウソのそれ以外のなにものでもないのに、それは意識を取り戻した夫を迎える妻の行動でもあり、人間的行動と動物的行動がどちらに偏るでもなく、重なり合ってひとつのシーンを作っていた。そしてアニメーションであの生物的な生々しさ(重複表現)を表現する技術力。
この二点のどちらにも言えることだが、一種偏執的にもとれるリアル志向・テクニカル的な挑戦が、さりげなく物語に取り込まれている。
ただ、それらのシーン以上にその「動物感」を存分に発揮しているのがギャグシーンだというのが、最高に格好いい。
みんな大好きナマケモノのフラッシュに始まり、社会性の強いトガリネズミが家族を愛するマフィア(だから『ゴッドファーザー』パロディなんて子どもにわからんて)で、このように動物の生態をうまくギャグにしている。ただのスラップスティックではなく(もちろんそれとしても最高級)、キャラクターが動物であることをきちんと活かしてのギャグシーンなのだ。このように徹底的に設定を突き詰めて突き詰めて、筋書だろうが美術だろうがギャグだろうが、その根っこから生えたアイディアのみで構成する。だからひとつの物語としてまとまるし、なにより強靭な背骨が通るのだ。
その「徹底」が、「裸に見える衣装を着る擬人化された動物」「動物のヌーディスト村」というアニメ史上に残るであろう、設定からしたら当然の帰結なんだけどよく考えるとエッジの利いたシュールですらあるギャグ、というのちに語り継がれるべき名シーンを産んだのだ。しかも衣装については冒頭の演劇シーンいきなり、である。「この映画はただの動物アニメじゃないぞ」という「本気度」をこちらに提示する。そしてそれと同時に世界観の説明をさらっと行い、更にラストへの伏線にもなっている、、、というまったくもってただ事ではないオープニングだった。
また、小さなシーンだが度肝を抜かれたのは愛すべき相棒・キツネのニックの髭、である。気が付いただろうか、ニックに髭はない。しかし髭の毛穴はちゃんとあるのだ。つまり「髭を剃る」という文化があの世界にあるというところまで徹底して設定してあり、しかもそれをきちんと描写しているのだ。
ディティールに神は宿るというが、おそらく『ズートピア』の神は一神教でなく八百万だ。「ディティールの集積として映画がある」というのはたしか押井守監督の言葉だが、しかし『ズートピア』は(時として押井映画が陥るように)ディティールに淫するだけではない。その「ディティールの集積」がエンターテイメントとしてしっかりとした質量を持って現れている。
それはSF的ですらある。というか、切り口によっては完全にディストピアSFとして語れるくらい、設定の論理性とセンス・オブ・ワンダーに溢れている。
それを産みだしているのは主としてガジェット(SF的小道具)である。なかでもズートピアに向かう列車は様々な動物のために大小のドアが設置されていてその開くメカニックだけで楽しいし、ツンドラ地区にある流氷を利用した動く歩道はアイディアとして最高だ。また、小動物の住む、他の動物からするとミニチュアサイズの地区。ここの大立ち回りの演出が怪獣映画パロディで、『ベイマックス』でのロボットアニメ・戦隊ヒーロー演出に次いで遂に怪獣までやられてしまった。本当に貪欲で、怖いことです。
ディズニーの真骨頂、ともいえるズートピアのテーマパーク感。そのガジェットのひとつひとつが発想豊かで、動作して楽しげで、かつ道具として(ある程度)ロジカルである。まさに「ズートピア」は理想的なSF都市であるのだ。そしてSF都市、一見ユートピアだからこそ、ディストピアとしての暗黒面が際立つ。
多様な動物が共存するために、つまり「バリアフリー」を実現するために様々な工夫・都市計画がなされてはいるが、結局それは表面上・技術的な「手当」でしかない、というリアリティがなんともSF的である。市民の内面に存在する不寛容、つまり「心のバリアフリー」はテクノロジーではまったく解決されない。「技術」と「人間性」というSF的テーマを、一見そうは観せずに、あくまでテーマパーク的楽しさで包装して、描いている。また、その都市の仮初の「平穏」を破壊するテロの方法が「野生」を目覚めさせる、というのも、なんとも示唆的だ。文明と本能、技術と精神。そういう重厚な「人間的」テーマを、繰り返しになるが「子ども向け動物アニメ」で描くことに成功しているのだ。
何度も言うけど、この作品は極上のエンターテイメントなんだ。「重いテーマを扱うから」なんて甘えの余地のないエンターテイメントなんだ。それでも、テーマに真っ向から向き合って語っている。語り切っている。だから凄いんだ。
まだ書けることが尽きないので、なんと3部作になります。
次回は「脚本編」。こんなに盛りだくさんの『ズートピア』が、90分位に収まるのか。そのストーりーテリング=圧縮術を考察するとともに、「伏線」という中毒性の高いギミックをどう効果的に使うかについて、自分なりの考えをまとめようと思います。